猫屋仲見世通り

Nosegay

着実に夏に近付いています。
空気の匂いとか。
街行く人々の纏うそわそわした感じとか。
植木の緑とか。

季節の移り変わりは空気を震わせるので、すぐにわかります。

実は暑いのは苦手なのですが、刻々と変化していく季節を感じるのは嫌いではありませ
ん。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

駅近くの花屋で立ち止まる。
幅が狭くて、奥行きもない、でも素朴で品がよくて、ついでにセンスもいい。
レジとカウンタを兼ねた小さな机にはいつも葉っぱとリボンが散乱していて、眼鏡の若い男が座っている。

何も買わずにただ花を眺めていても何も言わず、
少し迷っている人には控え目で適切なアドバイスをし、
目的がある人にはそれに見合った以上のものを実に鮮やかに作ってしまう。
そんな男だ。

僕は彼の店と彼と彼の作る花束や鉢植えの押し付けがましくないところを、とても好ましく思っている。

約束まであと45分。
今日は君に花を買って行こう。

薔薇、百合、ガーベラ、猫柳に真っ白いカラー。
君にふさわしい花。
でも、問題がひとつ。

「何かお探しですか?」
温和で洒落た黒ぶち眼鏡。

「ええ、彼女に花を…ええとこれは?」
僕は紫の花を指差す。
「それは菖蒲です。葉っぱはお風呂に」
「ああ、菖蒲湯。それはだめだな」
「だめ、ですか」
「ええ、3年前に彼女のおばあちゃんが菖蒲湯で溺れて死んだ」
はあ、と彼は腕組みをした。
「それはいけませんね。験が悪い。では向日葵は?小振りでかわいい品種ですよ」
黄色い小さな向日葵を示す。
「向日葵もよくないな。初恋の人に振られたのが向日葵の下だったらしい」
だから彼女は夏に小学校の前を通ると、決まって忌々しげに、あの健気に太陽を追いかける花を睨み付けるのだ。
「ぽんぽん菊は」
「盲腸で入院した時にお見舞いで貰った花束の中に蜂がいた」
「どこかを刺されたんですか?」
「鼻を」
ああ、と彼は眉を寄せた。
それ以来しばらく彼女は『ドナルド』と呼ばれていたらしい。
あひるではなくて、ファーストフード店の前に立っているピエロの方だ。

「じゃあかすみ草」
「彼女の部署のお局の名前が香澄だ」
「カーネーション」
「去年お母さんを亡くしてる」
「ミニ薔薇」
「彼女の前の旦那が好きだったんだ」
「波乱万丈な人生ですね」
「ああ、まだ若いんだけどね」

「…」
「…」

「あの、もしかして彼女さんは…」
彼は眼鏡を押し上げながら、申し訳なさそうに訊いた。
「うん。花が嫌いなんだ」

「…」
「…」

天使が大挙して僕たちの間を通り過ぎる。
通行人のおばさんがくしゃみをした。

「できれば好きになってもらいたいと思ってる」
「花を?」
「そう、花を。だって、ものごとの悪いところしか見えないのは悲しいじゃないか。
今や彼女は花柄のスカートさえ嫌っているんだ。きっと似合うのに。いや、絶対。
たまたま花にまつわる嫌な思い出が多いだけで」
「花に罪はない」
僕の言葉尻を引き受けて、彼はにっこりと笑った。
そしてカウンタの向こうへ上半身を突っ込むと、小さな鉢植えを引っ張り出して僕に示し
た。
「さぼてん?」
彼はうなずく。
「大事にしてやれば、そのうち花が咲きます」
そうか、と僕はその小さくとげとげしい姿を見つめた。
「まずはこの辺りから始めてみればいいんじゃないでしょうか。
花に嫌な思い出があれば、またひとつずついい思い出に塗り替えていけばいい。そういう風に僕は思います。だから、手始めに…」
「さぼてんに花を咲かせろって?」
「お二人で水をやって。きっと咲いたら楽しいです」
眼鏡の奥の瞳が、賢い牧羊犬のように真摯に僕を見つめていた。
「楽しい思い出に塗り替える、か…女性を口説くには、ちょっと陳腐じゃないかな」
彼は肩をすくめて苦笑した。
「陳腐ですよ、人はみんな。だからいいんです」

「そうかな」
「そうです」
力強くうなずく。
私も笑ってうなずいて、それから彼はサボテンを透明なフィルムで包んで、きれいな赤いリボンをつけてくれた。
紙の手提げに入れられたそれを受け取って、僕は彼に礼を言った。
彼は照れたように眼鏡を押し上げ、またお越しください、と頭を下げる。

幾分晴れやかな気持ちで駅に向かって歩き出す。
そこでふと、思い立った。

「あのさあ」遠くから呼びかける。
牧羊犬の瞳が振り返る。
「二人じゃなくて三人なんだ。彼女には娘がいる」
彼は一瞬きょとんとして、破顔した。まるで夏空のような笑顔だった。

「お気をつけて!」大きく手を振ってくれる。


約束まであと30分。
きっと花は咲くだろう。
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by nyankoya | 2006-06-20 10:41 | 創造の森
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